日本人の間で進む「清潔こそが正義」社会のリアル男性が美容に気を遣うようになったのも「清潔」をとことん求める社会ならではの現象だ(写真:Fast&Slow/PIXTA)清廉潔白、品行方正、謹厳実直――。とことん潔癖が求められる。そんな現代ニッポンの実態と、
男性が美容に気を遣うようになったのも「清潔」をとことん求める社会ならではの現象だ(写真: Fast&Slow/PIXTA)
清廉潔白、品行方正、謹厳実直――。
とことん潔癖が求められる。
そんな現代ニッポンの実態と、生き抜き方を具体例とともに追っていく連載第5回。
メディアに届くクレーム第4回:平等意識の欠けた人が干されるのは仕方がない訳(3月17日配信)
「タクシーに乗るな」
私はメディアで原稿を書いたり出演したりして15年が経つ。
テレビである報道番組に出ていたとき、こんなクレームが届いたそうだ。
レポーターが事件現場に向かう際、タクシーに乗って向かうシーンが流れた。
そのときに「マスコミは遠い場所までタクシーで行けるでしょうが、そんなお金のない視聴者を考えたらどうでしょうか」という趣旨だった。
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ドラマで犯罪者がクルマで逃亡する際に「シートベルトを装着していない」とか、犯罪者が事件後にタバコの吸い殻を投げ捨てることに対する視聴者からのクレームは有名だ。
「子供が真似したらどうするのでしょうか」「テレビ局は法律を守れといえるのでしょうか」といった正義感をもとに苦情が入る。
そこでドラマでは、犯罪者もしっかりと安全運転を順守するようになった。
ただ、まさか報道番組でのタクシーまでもクレーム対象と私は思わなかった。
みなさんは、これはどう思うだろう。
飼い犬が、飼い主とドライブを楽しむ映像を流すとする。
それに対しては「犬を乗せるときはケージに入れるべきだ」とクレームが来る。
犬の動きによっては運転が妨げられる可能性があるからだ、と。
なお、メディアの知人がいたら質問してほしい。
このようなクレームがあったら、どうするのかと。
答えは決まっている。
「報道や情報番組で違法行為があれば、もちろん是正します。
しかし、価値観に関わることだったら、さほど気にしません」。
たとえばタクシーに乗っても違法ではなく、かつフィクションでシートベルトをしないのも表現の範囲だろう。
ただ、私たちは人間だ。
問題はここで、何回もクレームが繰り返されると、精神的にまいってしまうのだ。
精神的に病むくらいだったら、法律的に問題はなくても止めておこうか、と判断する。
飼い犬も、ハンドルの操作を害する可能性がないとはいえない。
ならば、飼い犬が同乗するシーンを映さないか、犬をベルトで縛り付けたほうがいい結論になる。
これはメディアに出ているコメンテーターに対しても同じだ。
さほど問題があるように思えないコメントにクレームがくる。
すると、大丈夫だと思っているスタッフも、あまりに繰り返されるとイヤになってくる。
そのうち無難で漂白化されたコメントだけが流布するようになる。
面白いことに、こういう話をするとTwitterなどで「メディアは日和ってはいけない」と意見する人が出てくる。
何が面白いかというと、そういうアカウントをさかのぼって過去発言を見てみると、メディアに登場する人たちに批判を繰り返している点だ。
おそらく誰もが知らぬ間に批判を重ねているに違いない。
そして世はさらに漂白化していく。
漂白化とは、世の中が白くなるという意味だ。
この観点から、当連載では、企業活動の徹底したコンプライアンス化、コンテンツなどの漂白化、徹底した男女平等意識、などを取り上げてきた。
そして、現在、私の最も関心をもっている事は「汚さ」と「清潔さ」だ。
それは文字通り漂「白」化といえるかもしれない。
汚れた人、不潔な人をメディアに出しても法律的には問題がない。
しかし、このところ社会は急速的に小ぎれいで、清潔な人を求めるようになってきている。
少なくとも私はそう感じる。
さらには誰もがきれいに、きれいになろうとしている。
このきれいは、美しい意味だけではなく、清潔に、を含む。
そこで、今回は、この「汚さ」と「清潔さ」を考えていきたい。
それが漂白化する社会の最終的な象徴にも感じるからだ。
男女とも自分の美容に時間を費やす時代
先日、某討論番組のアーカイブを見ていて驚いた。
その番組は35年ほど続く長寿番組として知られる。
1990年代の様子を見ると、失礼ながら出演者がとても現代にはそぐわない。
ボサボサの髪、服装もいい意味ではラフだし悪い意味では乱れている、タバコの煙が充満しているし、言葉遣いも乱暴だ。
一方、つい先週に見た同番組の論者たちは清潔感にあふれて、外見も整っていた。
清潔感を持っていることがメディアに出る必要十分条件ではないだろう。
しかしそれでもなお、大きな変化のように私は感じた。
メディアは、けっきょくのところ、視聴者が見たい人を出演させる装置だ。
もちろん、テレビを見ている人が全国民の総意を示していないのは知っている。
ただし、他のメディアも同様の傾向がある。
少なくとも、この時代の推移とともに、視聴者の志向も変容してきたのは間違いないだろう。
ところで、清潔意識について考えるとき、世の中の実態がほんとうに清潔になっているかを把握してみたい。
そこで使用したいのは総務省統計局の社会生活基本調査だ。
この調査は国民の生活実態を調査したもので、そのなかに興味深い「身の回りの用事」にどれだけ時間を使ったかを質問している項目がある。
これらは肌のケア、美容、清潔の保持、ドレスアップ、おしゃれ、脱毛、髪のセット、等々が含まれる。
(外部配信先では図表などの画像を全部閲覧できない場合があります。
その際は東洋経済オンライン内でお読みください)
ネットの普及が関係している?30年ほどを見てみると、女性は右肩上がり、さらに男性も伸びてきている。
注目するべきは男性で平成8(1996)年以降に、急激に上昇していることだ。
これらの時代は、バブル崩壊から数年が経ちその凋落が実感できた時期であり、さらにアジア通貨危機があった。
さらにインターネットが普及しはじめ、多くの情報が既存メディア以外からも流通しはじめた時期でもある。
このインターネットの普及が、誰もの自意識に影響を及ぼしたと私は思う。
これはのちほども触れる。
さて、この影響を工業的な統計からも確認してみよう。
経済産業省の鉱工業指数だ。
これは各製造物の趨勢を示したものだ。
2015年を100としたときに、全体の鉱工業から比較しても洗剤・界面活性剤関連の出荷の伸びはきわめて順調とわかる。
日本人は――といいながらこれは中国などの美容ブームを見ても明らかだが――、私たちの世界はきれいさ、清潔さを求めている。
なお花王によると髪を洗う頻度は劇的に変化している。
平安時代:年1回ほど
江戸時代:月1~2回(最も高頻度な江戸の女性で)
昭和戦後:月1~2回
昭和30年頃:1回/5日
1980年代:2~3回/週
1990年代半ば:ほぼ毎日(10-20代女性)
2015年:ほぼ毎日(10-50代女性)
(出所)「洗髪/頭皮と毛髪のケア」(花王)
なお、2015年には(10~50代女性)とカッコ書きになっているが、労働層では男性でも同程度と思われる。
また男性用化粧品の売上が順調に伸びていることは、いくつかの違う統計データからも確認できる。
きれいさや清潔さを求めるようになった3つの理由
では、なぜ私たちはこのように、きれいさや清潔さを求めるようになったのだろうか。
ここ以降は仮説になるが3つをあげたい。
① 自分写真の増加
個人的な話だが、私は小学生のとき祖父を亡くした。
葬式のとき、遺影の顔が、私が見慣れたそれとまったく違ったのを覚えている。
死の前後を覚えていないのに、むしろ、それだけを覚えているくらいだ。
母に訊くと、写真がほとんど残っていなかったらしい。
おなじ経験をした人も多いに違いない。
私は40代だが、祖父母の若かりし頃の写真となると、数枚しかない。
それが私の父の時代だと、若かりし頃の写真は、祖父母の10倍くらいだろうか。
そしてスマホなど記録媒体が増加することでシニア世代の写真は100倍以上になっている。
私の息子などは死ぬまでに、旧世代の10万倍くらいの写真を記録するだろう。
これまで自らの写真を確認するタイミングが少なかったところ、現代ではつねに自分の顔や全身を見ざるをえない。
これでは意識しないわけにはいかないだろう。
ほぼ毎日のように自分の顔や体型を客観視しているので、その変化にすぐ気づくようになる。
ある種の美意識も獲得する。
② 美容の低価格化
ユニクロなどの低価格ファッションの台頭は見逃せない。
昔と違って、少しのお金でファッションを工夫することができる。
こざっぱりするのに大金を要しない。
誰もが経験があると思うが、身なりの良い人に「実はこれユニクロなんです」「これZARAなんです」と告白された経験があるに違いない。
そして、それは言われなければミドルブランドと違いがわからない。
誰もが意識しだいで格好を改善することができる。
そして、多くの人はそれをやっている。
さらに自分の写真をつねに見ることによって、自分の身なりを確認する機会も増える。
話が変わるようだが、かつて某番組の企画で靴磨き職人と話したことがある。
高度成長期に靴磨きが必要とされたのは、都市部であっても舗装が不十分で砂や泥にまみれる機会があったからだという。
だから汚れているのは標準で、ピカピカの靴だったら、そのぶん目立った。
現在は靴がきれいなのは当然、それ以上の身のこなしや清潔さが求められている。
そして、たやすくできることを、やらない人は排除されるということか。
③ コロナ禍
そして、時代の流れに決定的だったのは、コロナ禍だったように思う。
コロナ禍では、人と人との接触をできるだけ避けた。
これまでであれば、子どもたちの接触ならば、多少の菌やウイルスの交換もあるだろうと、親たちはわかっていたはずだが、それも回避するようになった。
さらに、誰かが触ったものを消毒してからしか触れない。
通常の人であってもそうなのだから、他者が不潔と感じる人を避けようとするのは当然だったかもしれない。
また、テレワークだからと安心はできない。
そもそも、みなさんは同僚の顔をまじまじと見たことがあっただろうか。
ZoomやTeamsでは同僚の顔を見続ける。
さらに重要なのは、ZoomやTeamsで誰もが、自らの顔を見続けていたことだろう。
おそらく、テレビ会議で他の誰よりも見ていたのは、自分の顔だ。
朝の支度時も、それほど自分の顔を見る時間はない。
しかしテレビ会議は1、2時間ほど自分の顔の現実を突きつけられる。
そうすると、必然的に、きれいに、清潔に、という志向が高まってくる。
漂白化する社会に私たちは
ここまで漂白化する社会について書いてきた。
さて私はこの社会を否定的に見ているかというと、そうではない。
馬鹿らしいと思う反面で、むしろ社会に従順すべきと考えている。
嘆くのもいいが、この潮流をむしろ利用できないだろうか。
ところで下の結論は凡庸なものになる。
●コンテンツを作成する場合には、汚さ、不潔を避けることになる。
それよりも、端正で清潔なコンテンツを志向すること。
汚さ、不潔にも表現の面白さはある。
ただし、むしろ汚さ、不潔を使わずに面白さを追求するべきではないだろうか
●社員の清潔さを保つこと。
髪型、フェイスケア、そして身だしなみ。
さほどお金はかからない。
汚れ、シワ、を最小限にすることはすぐにできる
●何よりも、社会が清潔化する漂白を求めている。
これは商品化の1つのヒントになるだろう。
これは化粧品業界だけではない。
企業は、これまで以上に、やや汚れのある職場に求職者が少なくなると意識するべきだ
漂白化する社会は、どこか建前だけで表面だけという感じをもつ人も多いだろう。
そして究極的にはそうなのかもしれない。
しかし、表面的ではなく、それ以上の中身をもつ企業は、それ以降に勝負すればいい。
つまり求職者や顧客を集めた後で、その実力を知らしめたり発揮したりすればいい。
私たちはこの漂白化の前には、なすすべもないのだから。
(坂口 孝則 : 調達・購買業務コンサルタント、講演家)
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